3. 戦後のヤシュコフ一家
戦争が終わるとGHQが、すぐに来ました。こんな山の中に外国人がいるとは思わず、私たちを見て本当に驚いていました。これからどうしますかと聞かれ、父はやはり長崎に帰りたいと言ったんです。ほかのロシア人たちもそうですが。それで汽車に乗って長崎に帰りました。原爆の後だったでしょう。駅に着いたら、もうあたりは焼け野原でね、それはショックでした。駅から歩いて家までもどったと思いますが、全然どうやって帰ったか、記憶にないんです。爆風で家も修理が必要でしたが、なおしてまたそこに住み始めました。
長崎にもGHQの兵士たちがいて、英語で話しかけられましたけれど、私はわからないでしょう、姉と「バーブシュカ」は英語ができたので、色々と話をしていました。中にはね、ポーランド系の兵隊もいましたしね。可哀想に思ったのか、食べ物なんかも分けてくれましたし、とても親切でした。 爆弾が落ちた悟真寺のロシア人墓地は、民間の墓地だから、結局国や市から費用が出ないでしょう。それでソ連大使館や日ソ協会が援助してくれて、修理したんです。その時には父も私も手伝いました。修理するのに私もチャペルの屋根に登ったりしたんですよ。結婚してからは、主人もこの墓地の修理を援助してくれました。
戦後、ソ連国籍を取った人と、取らない人がいましたが、父は娘4人を抱え、無国籍のまま 不安定な暮らしをするよりはと、1947年にソ連国籍を取得しました。帰国するかどうか迷ったようですが、結局帰りませんでした。九州のロシア人ではヤシュコフだけがソ連国籍を取ったのです。この選択は日本で暮らすにはつらかったですね。東西冷戦の時代でしょう、ソ連の人間だというと誰も雇ってくれませんでしたし。父は浜野町に赤い煉瓦の建物を建て、そこで喫茶店を経営しました。店の名前は「ウラル」といいました。うちの父と母は敬虔な正教の信者でしたし、本当にいい人たちだったんです。それでずいぶん困っている人を助けたと聞いています。ところで、ハルビンに行った兄ですが、イーラと言うロシア人女性と結婚し、二人の間にはゲオルギイという男の子が生まれました。戦前にイーラは、息子を連れて長崎に遊びに来てくれたことがあります。そのころ父は、世の中の様子が戦争にむかっていることを察して、ハルビンにいる息子に帰ってくるように言ったのですが、帰れないというので、妻子はハルビンにもどったのです。
父が心配していたとおり戦争が始まると、兄は満州国軍のロシア人部隊の将校になりました。戦争が終わってソ連軍には殺されてもおかしくない立場だったのですが、日本語ができるということで、マガダンの収容所に連行され通訳をさせられたのです。1953年にスターリンが死んで、ようやく釈放されました。
その間、長崎の実家には収容所から、捕虜専用のハガキで連絡があり、安否だけはわかりました。でもハルビンの妻子は、夫がどこでどうしているかはわからないし、お金がなくてどこに行くこともできず、本当に困っていたのです。そしてある身よりのないロシア人の老人と、いわば偽装結婚のような形で、一緒になってハルビンからノヴォシビルスクに行ったそうです。兄夫婦は本当に仲がよかっただけに、悲劇としかいいようがありません。
一方、兄のほうもハルビン時代に知っていた女性と偶然に出会い、彼女とカザフのカラガンダで新生活を始めました。二人の間にはターニャという女の子が生まれています。兄は1984年、カラガンダでなくなりました。ターニャはソ連が崩壊してから、モスクワで暮らしています。
ところで、戦後、父がこれからは英語が必要だというので、私は神戸の生田にあったサンタ・マリアというカトリック・スクールに行くことになりました。ここで3年ぐらい勉強して、長崎にもどりました。学校にはモロゾフの娘たちがいましたよ。同級生ではなかったですが。神戸にはエフロシーニャ・シュウエツとその娘のマルファもいました。まさかその時はシュウエツ家に嫁ぐことになるとは思ってもいませんでしたが、エフロシーニャは私をとっても可愛がってくれました。彼女のお墓は神戸の外国人墓地にあります。
それから、私の代父のゴロワノフ一家が、小倉から神戸に引っ越して住んでいました。一家はそれからオーストラリアのブリスベーンに移住してしまいました。少し前になりますが、私が娘とオーストラリアに旅行したときに、ブリスベーンで電話帳を調べていて、コンスタンチン・ゴロワノフの名前を見つけたんですよ。それで、電話で話をすることができました。ほんとうに奇遇ですよね。
1958年に、父と一緒に東京に旅行したことがあります。父は私に一度東京を見せておきたいと思ったのではないでしょうか。そしてこの年に父は亡くなりました。父のお墓は悟真寺のロシア人墓地の一画にあります。結局、父は兄とは戦前に別れたままついに会うことができませんでした。
父が亡くなってから、ヤシュコフ家では、色々なことを姉に頼るしかありませんでした。姉はイタリア系のアメリカ軍人と結婚していましたが、転勤で長崎から横浜に移ることになりました。1960年のことです。それで私たち一家も長崎から姉と一緒に横浜に引っ越しました。ただ、母と病気だった妹のジナイーダは少し遅れて来ましたけれど。その妹は1963年に亡くなりました。
妹は横浜の外国人墓地に埋葬されましたが、その時に一切を取り仕切ってくれたのが、ヴァレーリイ・フィリーポヴィチ・シュウエツ、つまり後に私の夫となる人でした。彼とは前に会ってはいましたが、よく知りませんでした。
彼はまあ、神父になりたかったというだけあって、教会のことや宗教的儀式には、とっても詳しかったんです。若い頃の話ですが、ヴァレーリイと静岡にいたミネンコという人が非常に熱心に神父になりたいと、ニコライ堂のセルギイ主教にお願いしたらしいんです。どちらか一人ということになって、その時、ミネンコは修道院に入りたいとまで言ったので、ヴァレーリイはあきらめたそうです。でも、結局ミネンコも神父にはなりませんでしたけれど。
いずれにしても、妹の埋葬の時には、親戚でもないのに、ああしろ、こうしろと取り仕切っていましたから、一体どういう人かしらと思いましたけれどね。
ヴァレーリイは、結婚する前はロシア語通訳の仕事をしていました。東京オリンピックやボリショイ・サーカスなど、色々仕事があったようです。その頃はロシア語ができる人はそれほどいなかったのでしょうね。
私は1963年に初めて日本を離れて外国に行きました。仕事の関係ですが、フランスに行ったのです。街を歩いていて、「外人」ばかりいると思ったのが、第一印象でしたね。1964年に帰国しましたけれど、ヴァレーリイからはロシア語のラブレターがフランスに届きました。私はそれに英語で返事を出しました。
1965年には母が来日してから初めてソ連に行きました。カラガンダまで兄に会いに行ったのです。そして姉が招待して、1970年には兄が、日本に来たのです。父は亡くなっていましたけれど30年ぶりの家族との再会でした。大阪で万博をやっていたので、それを見せたり神戸にも行ったりしました。そして、長崎にも行きました。兄は野口さんという人と二人で、この時、悟真寺のロシア人墓地の墓碑銘を全部紙に写し取っていたのです。ロシア語と日本語で書いてありますが、とっても貴重なものでしょうね。最近、兄の遺品を預かった中から、それが出てきたんです。
母は姉と一緒に暮らしていましたが、1975年に亡くなりました。横浜の外国人墓地に眠っています。4. シュウエツ家と東京のロシア人
私がヴァレーリイ・シュウエツと結婚したのは1966年のことです。生前に父が、他の姉妹には言わなかったのに、どういうわけか私にだけは、ロシア人と結婚するだろうと言っていたのです。本当にそうなりました。
結婚披露宴をしたのは現在住んでいるこの西麻布の家でした。もともとシュウエツ家が持っていた土地に、大きな洋館を建てて、ハンガリー大使館に貸していたものだったんです。ところがちょうど大使館が出て空家になっていたので、ここでパーティーをしようということになりました。招待状はロシア語と英語で作りました。大勢のロシア人、それに東京にいたハンガリーの領事夫妻なども招待して、パーティーは3日間も続いたんですよ。この時に作ったウエディング・ドレスは今でもちゃんととってあります。
当時シュウエツ一家が住んでいた家は千駄ヶ谷にあり、夫はそれまで両親(父フィリープ、母ゾーヤ)と一緒に暮らしていました。夫にはジナイーダという妹がいますが、すでに結婚してアメリカで生活していました。私たち二人は、西麻布のアパートで新生活を始めました。このころにはヴァレーリイは通訳の仕事はやめて、不動産管理の仕事に専念していました。
私が来た時には、東京にいたロシア人たちでも、ソ連国籍を取得した人たちは、特に若い人たちはかなり帰国したあとでした。ヴァレーリイの友人のアレクセイ・ベリャーエフや、ベーラ・アファナーシェワなども1950年代に帰国していましたから。ですから、ソ連国籍を取った人たちが作った「ロシアクラブ」が賑やかだったころについては、私はよく知らないのです。
現在ポドヴォーリエ(ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日分院)になっているあの建物がロシアクラブだったのですけれど、アブラーモフ夫妻はそこに住んで管理をしていましたね。奥さんはニコライ堂にあったロシア人学校の先生をしていた人です。現在はポドヴォーリエの二階に息子さんが住んでいます。 神戸にも昔はロシア人がたくさんいましたが、あまりソ連には帰国しなかったと思います。もし私だったら、いくらロシア人とはいえ、日本で生まれ育っているので、あの頃のロシアでの暮らしはできなかったと思いますね。シュウエツ家は、日本に不動産も結構ありましたし、帰るつもりはなかったでしょう。
もっとも東京から帰国した人がいたとはいっても、今と比べれば、まだロシア人はかなりいました。ニコライ堂だって、身動きできないほどいっぱいになっていたこともありますから。
ソ連国籍の人たちは、教会はニコライ堂ではなく、ポドヴォーリエができてからはそちらに行きました。
(*)東西冷戦の狭間でニコライ堂はモスクワとの関係を断ち、アメリカの正教会の傘下に入った。これに対しあくまでもモスクワ総主教との関係を望む人たちが別な教会「ポドヴォーリエ」を立ち上げた(『日本正教史』)。長崎の高井神父が東京に出てきて作ったんです。最初は新宿に「正統正教会」という名前の教会を作りました。それから池上に移転し、次に四谷に移り、そして現在は千石のロシアクラブだった建物に入ったわけです。この教会を作る時には私の義父フィリープがずいぶん尽力したようですが、義父が亡くなってからは夫ヴァレーリイも一生懸命手伝いました。日本人とロシア人の間に生まれた、いわゆるハーフの子どもたちは、親たちはニコライ堂っそり来ていたこともありました。
結局日本に残ったロシア人たちの多くは、高齢でしたから、1980年代までにはほとんど亡くなってしまいましたね。
義父のフィリープは1967年に亡くなりました。私たちの結婚の一年後でしたから、ヴァレーリイが結婚して安心したのではないかといわれました。
義母のゾーヤが残されたので、私たちと一緒に暮らそうということになり、横浜に持っていた家にみんなで引っ越しました。でも、ヴァレーリイの仕事にとっては、東京のほうがよかったので、またすぐ東京にもどることにしました。現在の西麻布の家です。ハンガリー大使館が出たあと、キューバの通商代表部が使っていたのですが、その住み方が目に余るほどひどかったので、明け渡してもらって、ここに私たち一家が移ったわけです。この家は広かったので、復活祭とか誰かのお誕生日というと、よくロシア人が集まったものです。
私たちには二人の娘、マルガリータとエカテリーナが生まれました。5. 軽井沢のこと
夏の東京は暑いので、娘二人を連れて軽井沢にはよく避暑に行きました。軽井沢にも何人かロシア人が暮らしていました。アルフレッド・デンビーの妻マリヤがいましたし、その妹のニーナと夫のコンスタンチン・プレーゾは、今はもうありませんが、とても立派な洋館に住んでいました。私の二人の娘たちもニーナにはとても可愛がってもらいました。ニーナはいつもレースの白い手袋をはめていて、とても優雅な人でしたね。家の壁にはデンビー一族の肖像画が数点飾ってありましたが、これは函館の博物館に寄贈されたんですよね。
(*)これらの肖像画は、家族とともに日本を経てサンフランシスコに亡命したグレーブ・アレクサンドロヴィチ・イリインというロシア人画家が描いたものである。グレーブはレーピンの弟子であり、アメリカではフーバー大統領の肖像画を描くなどの成功をおさめたという。またサンフランシスコにロシアセンターを設立し、初代会長に就任した。在日中にアルフレッド・デンビーが面倒をみたことのお礼に8点の肖像画が描かれた(岡田一彦「描かれたデンビー一族」『市立函館博物館研究紀要』3号、昭和10年1月12日付け「函館新聞」)。それから、ロシア・レストランをやっていたアンティーピナという女性がいました。ご主人と普通の日本家屋に住んでいたのです。そして、夏だけお店をオープンするのですが、ベランダのようにして張り出したところを作ってそこをレストランにしていました。でもお客さんが込んでくると、和室の居間にもテーブルを作っていましたね。シーズンの終わり、9月にはいつも東京からロシア人たちを招いてパーティーを開いてくれました。
ご主人が亡くなってからは、軽井沢は冬が寒いので、冬期間だけは東京の娘さんのところに来ていました。結局、その後、彼女もソ連に帰国することになって、店をやめてしまいました。常連のお客さんはがっかりしたようですね。
そんな時に、ヴァレーリイが軽井沢でレストランを持ちたいといって、私がお店を出すことになったわけです。1974年のことで、最初は小さい家を借りて始めました。店の名前は、長崎の父の喫茶店の名前と同じ「ウラル」にしました。
私は商売なんて知らないので、どうやって値段をつけていいのかわからず、最初は安くて、おいしくて、ボリュームいっぱいというので、ずいぶんお客さんが入りました。それでその後は、少しボリュームをおとしましたよ。とにかくとても忙しくて、体重が10キロも落ちたほどです。メニューはピクルス、ボルシチ、ピロシキ、ビーフストロガノフなどに、私のオリジナル料理で「ロシア・ハンバーグ」と名付けたものがありました。これは、チキンのハンバーグをトマトソースで煮込んだものです。とても人気がありました。うちの子どもたちの大好物です。
ピロシキは、シュウエツ家でお手伝いをしてくれていた「ちず子さん」が専属で作るんですが、これが私たちが作るよりも大変おいしいのです。「ちず子さん」は、亡くなったルダコフというロシア人からレシピを教わったのですから、本物の味なんですよ。
その後大きい別荘にお店を移して、夏だけですが、結局13年ぐらい軽井沢でレストランを続けました。軽井沢のお店をやめてから、東京でも家の隣に同じく「ウラル」という店を出して、7年ほど続けましたが、自分の時間が全くないので、大変でしたね。義母のゾーヤの介護も、私が全部みましたし。厳しくて、潔癖性の姑でしたが、寝たきりになってから、下の世話までしたときには、心から感謝してくれました。ゾーヤは1984年に亡くなりました。6. 夫ヴァレーリイとその死
ヴァレーリイは、娘たちをとても可愛がっていました。彼女たちが遊びに出かけて、遅くなったりすると、悪い人がいるから気を付けなくてはなど、とても心配するんです。それで、「あなたが若いころ、よほど悪いことをしたから、そんなことを言うのね」なんて、冗談を言ったものです。
主人はちょっと口が悪いところがありましたが、話がおもしろくて、バカがつくほどのお人好しでしたね。
前にも言いましたけれど、とにかく教会のことには熱心で、1997年にはモスクワの総主 教から感謝状をもらいました。主人と教会のことでは、色々なエピソードがありますね。たとえば、もうずいぶん前ですが、東京のある古本屋で正教関係の古い書物や資料がかなりまとまって、売りに出ているのを見てしまったんです。それで、こういうものが売買されるのは見るに忍びないからと、大枚をはたいて買い求めたんです。今でも家にありますよ。
それから、在日ロシア人が亡くなって横浜の外国人墓地に埋葬される時には、ほとんど毎回立ち会って、お世話しました。小沢征爾夫妻から電話がかかってきたこともあります。小沢征爾夫人の入江美樹さんは、お父さんがロシア人なんです。ヴィタリイ・イリインといいますが、義父のフィリープと一緒に仕事をしていたことがあって、よく知っているんです。小沢征爾さんと美樹さんが結婚する時には、招待状も届きました。そんなわけで、ずっとお付き合いがあったので、美樹さんのご両親が亡くなられた時には、ヴァレーリイが頼まれて、お葬式一切をお手伝いしました。
主人は函館の外国人墓地にある先祖のお墓にも、たびたびお参りに行っていました。帰りには必ず朝市の行きつけの店から「たらこ」とか「スモークサーモン」とかを買ってきてくれました。主人が亡くなってから、娘が函館に行ってその店に立ち寄った時に、店主が「あの人の娘さんか」と言って感激してくれたそうです。主人が子どもの頃に住んでいた函館の家は、その後カール・レイモンがソーセージの店にしていたんです。主人はなつかしかったので、中を見せてほしいと頼んだこともあったんですが、結局見せてはもらえませんでした。今は、誰も住んでいないようで、もったいないですね。
主人は1997年、71歳の時に、突然倒れて、そのまま亡くなってしまいました。いつもと全くかわらなかったんです。多少具合が悪かったのではないかと思いますが、私に心配させたくなかったんでしょう、本当に何も気づきませんでした。倒れたとき、六本木クリニックのアクショーノフ先生は、患者をみていてすぐに行けないとおっしゃったので、救急車で病院へ運びました。先生はそれからすぐに病院に駆けつけてくれましたけれど、もうすでにどうしようもなかったのです。その時はヴァレーリイとは長い友人でもあり、医者として何もできないことが、とてもつらかったと聞きました。先生には義父も義母も看取ってもらって、ずいぶんお世話になっているんです。
主人の死があまりに突然でしたから、もちろんショックでしたし、しばらくは信じられなかったですね。そのうち、ひょっこり帰ってくるような気がして。
ご近所の人も一体誰が亡くなったの、という感じで、ヴァレーリイよと言ったら、みんな驚きましたから。本当に人間の死はわからないものです。
横浜の外国人墓地の管理人さんも、夫とはもうすっかり顔なじみでしたから、主人の埋葬ですと言うと、絶句していました。この横浜の墓地には小沢征爾夫妻とお子さんたちも来てくれて、埋葬に立ち会ってくれました。今思うと、主人はあまりシュウエツ家のことを話さなかったですね。私も忙しかったこともあって、尋ねたこともなくて。この家もずいぶん古くなりましたけれど、私が生きているうちは何とか手入れをしながら、このまま住んでいたいと思っています。
---------- 編者が語り手のリューバ(リュボーフィの愛称)さんに初めてお会いしたのは、ご主人のヴァレーリイさんが亡くなられた2年後の1999年のことである。リューバさんも娘さんたちも、それまであまり考えもしなかったシュウエツ家の歴史を、改めて知りたいという気持ちになられたそうである。その時に調査のお手伝いをしたのが、私とリューバさんの出会いであった。
さらにこのたび、リューバさんの実家であるヤシュコフ家のお話を聞かせてもらうことができたのは、大きな収穫であった。戦争という異常な時代に、つらい体験をなさったリューバさんだが、それでも子どものころから青春時代を過ごした長崎が、一番の思い出の地であるという。現在は、二人の娘さんとシュウエツ家を守り、ポドヴォーリエにも熱心に通われている。2000年には、リューバさんがご主人同様、モスクワ総主教から感謝状を授与された。
戦前から日本で暮らし続けているロシア人家族は、今となっては皆無に近い状況である。そのような中で、函館、横浜、神戸、長崎と日本各地に足跡を残してきたシュウエツ家とヤシュコフ家の記録は、誠に貴重なものだと思われる(シュウエツ家については拙稿「サハリンから日本への亡命者−シュウエツ家を中心に−」『異郷に生きる』(成文社)を参照されたい)。
なお、何度も取材に応じてくださったリューバさんとマルガリータさん、エカテリーナさん姉妹に深くお礼を申し上げます。また、白浜祥子さんに長崎の地理を教えていただいたほか、この稿をまとめるにあたって多くの方々からご助言をいただいたことに、感謝します。